Main Gate of Luke AFB (1980)
F-104 Page
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Luke AFBのメイン・ゲート前に飾られているGate-GuardのF-86F。2機の内、右の塗装は朝鮮戦争時代に多くのエースを輩出した4th FIW/335th FISのものである。アリゾナの灼熱の太陽の下、機体の上は目玉焼きが直ぐ出来そうに熱く焼けていた。この機体の他、ゲートの中にもF-84など数機が別に展示してあった。40年以上前の話であり、今はどうな様子だろうか。
1980年2月の事である、広大なアメリカの大地を身体に感じながら延々と何時間も砂漠を車で走らせてきた。信号機などない真っ直ぐな道ではブレーキペダルに足を移すことが殆どなく、その必要もない為、自然とアクセルばかり踏んでいるのである。それは脚がしびれてしまうほどである。そんな中で砂漠から突然高層ビルの林立する近代的な町並みが現れた!突如、映画”未知との遭遇”のような非常に異質なものに出逢った様な不思議な気持ちに陥った。目の前に広がるアリゾナ州の州都フェニックス(Phoenix)の大ビル群。 サボテンと砂漠のフリーウェイ10を走り抜けると忽然と現れるスモッグに霞んだ超大都会に我々は驚愕した。こう言う驚きは後にラスヴェガスを見たときも体験したが、街を抜けるとまた砂漠である・・・(2002/8/6 記)
大都市フェニックスの中心部から西へ車で30〜40分走った所に、当時の航空マニアにとって憧れのアメリカ空軍ルーク空軍基地 (Luke AFB)があった。何故憧れだったのか、それはアメリカ本国で唯一F-104の部隊が撮影できる基地だったからである(プエルトルコANGもあったが)。此処の飛行隊はもちろん実戦部隊ではなく、合衆国が西側諸国に売りつけた”最後の有人戦闘機”のパイロット養成訓練を一手に引き受けていた組織であり、当時最も多数のF-104を購入した西ドイツ空軍のパイロット訓練が、58th TTWの主なる任務であった。 
Wings
1970年代の終り頃から1980年代の初めに掛けて、ここルーク空軍基地にはF-104Gの他にF-4C、F-15Aと3世代に渡る機体が一同に活動しており、正に戦闘機発展の流れをそのまま捉えることが出来る基地だった。西ドイツ(当時)は確か700機以上のF-104G/TF-104Gを導入した為、ルークAFBで多くのパイロットが訓練を受けており飛行回数も非常に多かったと記憶する。ドイツ空軍のパイロット訓練は、F-4Fについてはカルフォルニア州のジョージ空軍基地が受け持つようになり、これが閉鎖後はニューメキシコ州のホロマン空軍基地が担当していた。
ご覧のように殆どのF-104Gは胴体下にディスペンサーをぶら下げている。つまり爆撃訓練をしているわけである。航空自衛隊のF-104Jと西ドイツ空軍のF-104Gの決定的な違いが、”F-104の用途の違い”であったことは、航空機の事に多少の知識がある方ならご存知のはずだ。西ドイツのF-104Gは、その高速性能を生かして東欧のワルシャワ条約機構軍基地内に 深く進入し戦術核爆撃を敢行することにあった。その為 高速で低空侵入をはかる役割を このF-104に負わせたわけだが、こんなことをこの単エンジンで しかも翼面積が小さくエンジンが故障すれば滑空も出来ないこのF-104でやらされたパイロットは実に気の毒であった。10日に1機の割合で墜落事故が発生し”未亡人製造機”の名前まで付けられたは有名な話である。 
F-104G/63-13254
F-104Gの”G”はGermanのGである。「そんなこと説明せんでも判かっちょるわ!」とお叱りを頂きそうであるが、この戦闘機からではないだろうか、輸出先の国名の頭文字を機体の型式につけるようになったのは。
 F-104に殆ど興味を示さなかったアメリカ空軍に早い段階から見切りをつけ、海外向けに営業活動にシフトしたロッキード社は、その国毎の国内事情をよく研究しF-104の仕様も要求にマッチングさせるようにあらゆる努力を惜しまなかった。その結果、西欧のNATO陣営諸国を中心に多くの売込みに成功しわが国にも”JAPAN型”を採用したのだ。今でこそ開発時点で輸出を前提に「F-15I」だの「F-15J」だの「F-15K」だの型式に国の頭文字を使う事が普通のようになったが、F-104こそ、その先駆けとしてそれを行った第一級の”輸出専用戦闘機”なのだ。
 
F-104G/63-13235
F-104G/65-12747
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F-104Gは、リットン社製のLN-3というアビオニクスを搭載し極めて優秀な戦術戦闘爆撃機に変身していた。F-111で注目された地形追従機能/自動高度保持能力/全天候爆撃機能が与えられ、それに精密な機動が取れるようにコンピューターが制御できるようになっていたのである。ワルシャワ条約機構軍の圧倒的な物量に対し、万一戦争が勃発した場合、西ドイツ空軍は米軍管理下にある戦術核爆弾をF-104Gに積んでスプラングル発進の如く飛び立ち、東ドイツ/ポーランドの重要な軍需施設と移動するワルシャワ条約機構軍の地上兵力に対し低高度から戦術核爆弾をお見舞いするわけである。その為、通常からこれら重要施設は航法用のCPに入力され、パイロットは自分で目標を探すことなく自機のコンピューターの示す目標まで移動し、爆弾をリリースするだけであったと言う。
F-104G/63-13420

TF-104G/63-8457

F-104G/63-13690

↑ 着陸が撮影できるポイントから、少し小道を歩いて奥に歩いて行ってみたら、翼タンを外したF-104Gがタキシーしてきた。しっかりタキシングが撮れる場所があったのだ。F-104は当時のジェット戦闘機としては珍しく下反角の付いた翼をもっていた。

TF-104G/66-13625